昭和48年6月24日 朝の御理解
「天地書附」
生神金光大神 天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあり 今月今日でたのめい
金光様の御信者で天地書附を知らない者はありますまい。又この天地書附はお互いが何となく日々心の中に繰り返させて頂くものです。ところが、只空念仏的な天地書附ではいけません。
ですから教祖の神様はこの天地書附、当時は天地書附とは言わなかったでしょう。只「生神金光大神天地金乃神一心に願えおかげは和賀心にあり、今月今日で頼めい」というものを書き附けられて、そして当時参ってきた人達に見やすい所に貼っておけと渡されたのが只今私共が天地書附と行っておるのです。
ですから見やすい所に貼っておくと云うこと、いわゆるおかげは和賀心にありと仰るのだから、それを見るたんびに、ああこれは和賀心ではないなと自分で気が付かせて頂くたんびに自分を反省させて貰う。そして和賀心になる事を精進努力すると云うこと。
皆さんここで御理解を毎日、教典ノートを出してはこう書きつけておられます。それは忘れん様に書きつけるのですけれども、忘れる為に書きつけると云う結果にもなりかねない。
ああ今日のこの御理解だけは頂いとかなければと、もう本当に自分の心の中に頂いたものは忘れられません。むしろ忘れんごとと思うてちょっと書きつけておくともう書きつけたと思いましてからもう安心してちゃんと忘れる。
今日ここで云う書附と云うのは、忘れるために書き附けるのではない。これはいつも見よいところに、いつも見る所にやはり貼っておくと云う意味に於ての書附です。
日に何回となしにそれを見る。しかも見るだけではなくて果してその天地のいわば心に反しておる事はないか、その事が心の中に忘れられておることはないかと、いつもそういう為に見やすい所に貼っておけとこう。
もう四神様は親金光様の後にお控えになった間中、この天地書附をお書きになったと云うことであります。だから今残っている天地書附はもうみんな四神様のお書きになったものと云われております。 それを参った者に・・これを見よい所に貼っておけとこう云われた。私も日の中何回かここにいろんな紙切れを、紙を置いとりますから一寸こう頂いたり感じたりしたことを書き附けておる。
それを最近は末永先生が全部纏めましてから、アルバムを買って来てもう何冊も何冊も、もう沢山一寸紙きれに書いたものですから鉛筆で走り書きしとるものもありゃ、筆で書いとるのもある。
ですからそれを繰り返し又見てみますと本当に素晴らしいこと、本当にその一字でもおかげを頂かせて貰えると云う様なものがある。今日も今ここに座らせて頂きましたら、ここにこれは夕べ恐らく私がお説教を申しましたことの中からこれだけはと云うのではないでしょうか、若先生が書いてここに置いてある。
昭和四十八年六月二十三日と云う日まで書いてある。
腹を立てず、愚痴を云わず、欲をせずと云うことを話したけれども、愚痴を云わずと云うところは仕様がないと思うたのでしょうか。腹を立てず、欲をせずと云うことが二言だけここに書いてある。
ですから仲々一遍にと云う訳には行きません。けれどもこれだけはと例えば自分の心の中に頂いたものをです、しかも六月二十三日と。 よく禁酒禁煙なんか書いとります。何月何日禁酒禁煙とね。何日から始めるとこういう訳なんです。
ですから私はそういう心掛けが書附を書いておくと云うのじゃないでしょうか。腹を立てず、欲をせず、まあこれだけでも自分のものになったら大変なことです。ですからこれは、四神様の御時代に或先生が御神戒を書いてそれを額に上げて額にして自分の部屋に揚げる。
金光様、私はあの御神戒をずーっとあれを毎日毎日額にして眺めさせて頂いておりますと云うて申し上げたら、四神様が仰った。あれは見るものではない。それは一つ一つ消して行くのじゃと仰った。 と云うことはその御神戒の一つ一つが自分のものにもうなった、自分の血に肉にもうなったと思うたら消して行くのじゃと、只眺めとるだけじゃいかん。見とるだけじゃいかんと云う訳なんですね。 そこで私は日々です、例えばこうしてお話を連記的に書き附けておいでられる皆さんが、それも有難いけれども、今日の御理解の何処でも良いわけです、ならば昨日の私のお説教はいろんな意味で沢山申しました。
がその中に若先生は、腹を立てず、欲を云わずと云うことだけを特に思うたのじゃないでしょうか。しかしこれは今晩を境にその事に取り組もうと、まあ思うたのじゃないでしょうか。
例えば今日一日の支えになると云う言葉一つでも書き附けて行けばいいと思うです。しかもあの言葉と云うものはですね、その時その時に頂く言葉と云うものは素晴らしい力を持っておるものだと思います。
意味が同じであってもですね、私が表現した言葉でなければ力がないと云う場合があるですね。
ちょっと意味は同じでも後先を変えたらもう全然力がなくなる。 先日西岡先生が、昨日でした言ってました。最近私が物や金に執着せずと云う、特にあの人に執着しないと云う。沢山のお説教を聞いてきたけれども、お道の信心を頂いて執着せずと云う言葉は初めて聞いた。と西岡先生が心の中にそれを感じた訳ですね。
執着と云う言葉は随分沢山の人が使う言葉ですけれども、私が云うた言葉の中ではこの執着と云う言葉が一番云うならば深刻に響いたと云うのじゃないですかね、西岡先生にとっては。
だからそれが頭にある、ああ自分は物に執着しとる、人に執着しとると云う様にです、日々頂きます御理解の中からです、もう自分の心の中にもうぴったり頂かれるもの、感じれれるものを頂けれる。私は言葉を書き附けておかねばならない、それを行じてゆくことの・・・・・
私は思うのですけれども、日々の御理解を一ことでも行じておってご覧なさい。もう素晴らしい体験が生まれて来るのです。
それを聞いただけで行じないから、さ何か信心の話をして下さいと云うても、そう咄嗟に云われてもと云うのですけれども、実を云うたら一言でも実行しよったらもう絶対体験が生まれて来るです。だからその事だけは話されるです。
今日は親先生あんな御理解頂いてここんところ本気で行じさせて貰うたら、もういろんなときにそれを実感する。
皆さんが朝ここでお届けをされる。特にそこの合楽食堂の中村さんなんか毎日そのお届けがあるです。もう本当に有難かのちゅうちから、二人で話し合います。もうしゃっちそれをこうと思うておるとです、それを実行しなければならないことが毎日起きて来るのですから、如何に神様が稽古をさせて下さろうとする働きがあるか分からんねと云うて話すんです、本当です。ですからそれだけで結構何か信心話をせねばいけないならば出来る筈です。皆さんもそこんにきを一つ本気で体験されると良いですね。
今日は天地書附と云うところを頂きましたから、書き附けると云うことについてまあ、今日は何と書き附けとこうかと、他に何にも書いてない、天地とかいてありますから、その天地と云うところを皆さん心に書き附けておいて下さい。
そこでなら天地とははどういう事か。ここでは天と云うのは、もう与えて与えて止まないもの、云うならば若先生が書いとることの、ことにすると欲をせずということになるのじゃないでしょうか。
天は与えて与えて止まないもの、それが天です。
それから地と云うのは、受けて受けて受け抜くと云うのが地の心です。そこでこれは、腹を立てずと云うことになるのじゃないでしょうか。腹を立てずと云うこともその中に含まれる訳ですね。
どういう事を云われても自分の心一つの中に治めて仕舞うという、黙って、黙って治めて行くと云うのが地の心です。
この二つをね、今日は皆さん心の中に一つ書き附けておいて下さい。そしてどういう事があっても、どういう事を云われてもです、それを地の心で受けて受けて受け抜いて行こうと行の上に今日一日行の上に現すことになってご覧なさい。
もう汚いことどん言わん、もう与えて与えて止まないもの、限りなく美しゅうならせて頂こう、云うなら欲をせずと、若先生が書いとりますように、そういう風に行じて行かなければ駄目です。
信心はもう必ず、例えば夕食なら夕食をなさった時にです、一言聞いて貰わねばおられない程の体験が生まれて来る筈です。そういう雰囲気が家庭の中に出来なければいけません。今日は一番皆さんの見よい所にです、まあ云うならば、天の心、地の心を書き附けておく、しかもそれをいよいよ自分のものになる程しにその事が地肉になって来たらどういう事になって来るでしょうか。大変なことです。いよいよ私が助かって居ることを実感するでしょう。
ですからその自分の助かりをもって又周囲の人の助かりと云うことに分け与えて行けれる程しのことになるでしょう。
もうその事だけに焦点を置く、書き附けておく、見やすいところに貼っておくとそれに只こうやって横目で見て行くと云うことだけでなくて、果してその事が今日出来て居るか、出来ていないかと云うことを思い、それが自分のものに地肉になったらそれは、はいでもうそれは焼いても捨てても良いことになるのです。
その為に書付けておくのです。ところがややもすると、あれは忘備録と云うですかね、忘れるためにちゃんと備えておくと云ったその結果のならんようにせねばいけんです。ちょっと忘れんごとと云って書いとく。
或字を知らない駄菓子屋のお婆さんがね、色々まあみんな掛けでお菓子やら食べましょう、そうすると饅頭を食べたときには〇を書きます、ね、帳面に字が分からんから、誰々さんが・・・
これは金光様の先生の中にもね、字を知らない先生がそういうことがあるのですよ。あれが参って来たときには△あれが参って来たときにはーー、あれが参って来たときには何と自分がこうと決めてある。そしてそれをーーやら色々書いといてお届けをなさる時に何処の誰某が参って来たと、もうお届帳には○やら△ばかり書いてある様な先生が昔はおありになたと云うことです。
だからそのお菓子屋のお婆さんもやっぱり人には○を書き、ところが或時、そのお婆さんがね、借った人にあんたは串抜き団子を一つ食べとるよと云いなさるそうです。私はこの頃饅頭は食べたばってん、あれは金は払うたよち、五つ食べたけんで五つこう書いちゃった。そしたらお金ば払いに来なさったけん棒ばこう引っ張っちゃった。それで丁度串抜き団子のごと書いちゃったけん、あんた串抜き団子一ちょ食べとるよち、云わっしゃったちゅう笑い話があります。
書付けとくと云うのが、そういう結果になってはいけないですからね。人のとには書付けとるとば見なさいちゅうて、自分はね、いっちょん見よらん。自分のものにしてないと云うことではね、いけません。
人だけそれを書いて与えると云うことではいけません。やっぱり自分のものにならなければいけない。かえって凝りを積ませるようなことになる。べたべた貼ってある。
もう、この頃、何処に行きましても私がいろんなものを書いたものを、もうみんな額やら軸やら短冊やらにしてありますから、もういっぱい、恐らく私が行くときだけか知れませんけれども、もういっぱいこうやって貼ってあるです。
はあこれだけの事を身につけられたら大した事であろうと思うですね。だから見るだけではない、自分のやはり地に肉にするためにつけておくのです。
今日はどうでもひとつ天地と云うところを書付けておいて下さい。 どうぞ。